「悲しみよ こんにちは」(サガン)①

初読とは違った感触を得ている

「悲しみよ こんにちは」
(サガン/河野万里子訳)新潮文庫

18歳のセシルは父・レイモンと
その愛人・エルザとともに
避暑地の別荘で
夏を過ごしていた。
そこへ亡き母の友人・アンヌが
やってくることになり、
一波乱起きそうな予感を
セシルは感じる。
セシルは近くの大学生・シリルと
恋仲になる…。

私が本作品に出会ってすでに30数年。
初読の際は
主人公セシルとほぼ同じ年代であり、
その心情に痛いほど
共感することができました。
セシル同様「自由でありたい」と
いつも思っていました。
でも、約10年に1回読み返す度に、
共感しつつも、
それとは違った感触を得ている
自分に気付かされます。

冷静に10代の自分を振り返ってみると、
それなりに自由だったと思います。
別に誰かに、あるいは何かに
縛られていたわけでは
なかったのですが、
漠然と窮屈な感覚を抱いていました。

それは「将来に対する不安感」
だったのかも知れません。
就職するために
勉強をしなければならない、
でももっともっと
やりたいことをしておきたい。
それが十分に出来ない
いらだちのようなもの
だったのかも知れません。

自由を求めるセシルの感覚は、
自分のそれとは違うものだと、
歳を重ねるごとに気付いてきました。
レイモン一家は基本的に裕福なのです。
レイモンがある程度仕事をしていれば、
それ以外の時間は自由に出来る。
将来の見通しを持つ必要もなければ、
将来のために蓄えておく必要もない。
だから刹那的な生き方が可能なのです。

一方、快楽的な生活に
身をまかせてきたセシルにとって、
アンヌは理知的な大人の女性です。
セシルはアンヌの持ち込んだ
「規範」に触れ、別の新しい生き方を
提示されたと見ることができます。
いわば「成長」のチャンスだったのです。
しかし、彼女の生き方は
変わりませんでした。

変える必要がなかったから
変えなかったのか、
それとも「成長」の機会を
自ら潰したために
変えることができなかったのか。
いったいどちらなのでしょう。

セシルの年齢を過ぎ、
レイモンやアンヌの年齢も
とうに過ぎてしまった自分にとっては、
本作品のセシルの境遇は
あまりにも現実から
遠く感じられてなりません。
だからこそ、
私にとっては小説としての価値が
高まっているのですが。

この瑞々しい感性で紡がれた作品を、
ぜひ中学校3年生もしくは
高校生の若々しい感性で
受け止めさせたいと思います。

(2019.8.3)

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